蜜の秘密の味

OSHO 講話

「蜜の秘密の味」
The Secret Taste of Honey on the Tongue

 イエスは弟子たちに明日のことは考えるなと言った。野の百合を見てごらん。なんと美しいことか。百合は過去のことを考えないし、未来のことも考えていない。これから何が起こるのか、どんなことがあったのか、少しも心配していない。百合はいまここに生きている。それが百合の美しさだ。それが樹木や岩や星々や川の美しさだ。全存在は過去を持たないがゆえに美しい。

 人間は醜い。過去が人間を醜くしてしまう。人間以外のすべてのものが美しいのは、ただ人間だけが過去や未来のことを思いわずらい、いまここにある「生」を見逃しているからだ。生はそこにしかないし、ダンスもここにしかない。あなたが醜くなるのも当然だ――あなたには生きる機会が、ほんとうに生きる機会がないのだから。

 興味深い話がある。
 ある男が友人の仕立て屋と狩猟の旅のことを話していた。「あるとき」と仕立て屋は言った、「私はアフリカにライオン狩りに行ったんだ。ところが、ライオンと鉢合わせをしたとき、あいにく鉄砲を持っていなかった。ライオンが近づいてきた。もう目と鼻の先だった」
 「どうしたんだい?」と男は息を呑んで尋ねた。
 「そうね、要するに早い話が、俺はライオンに飛びかかられて殺されちまったのさ」
 「殺されたとはどういうことだい?」と男は尋ねた。「お前はここにぴんぴんして座ってるじゃないか」
 「へん!」と仕立て屋は言った。「これが生きてるって言えるかい?」
 生きているように見える人も実際には生きていない。彼らは一度どころか何度も殺されている。過去によって、過去のライオンによって殺され、しかも未来によって、未来のライオンによって殺されている。彼らは毎日のように殺されている。毎日のようにこのふたつの敵によって殺されているのだ。

 美しい仏教の寓話があるが、これには多くの意味が込められている。いずれの意味にも奥深いものがあるが、今日はそのひとつの意味をよく理解してほしい。

 ある男がライオンに追いかけられ、この猛獣から逃れようと、必死に森のなかを駆けていた。男は崖っぷちに追いつめられた。それ以上は行き場がなかった。一瞬、男はどうしたらいいのかわからなかった。彼は谷底をのぞき込んだ。底なしの深い谷だった。飛び降りたら命はない。だが、まったく望みがないわけではなかった。奇跡が起こるかもしれない。それでもっとよくのぞき込むと、深い谷底には二頭のライオンがいて、こちらを見上げていた。もはやその望みもなくなった。
 ライオンがどんどん近づいてきて、その吼える声が聞こえてきた。それはすぐそこに迫っていた。万にひとつの望みがあるとしたら、谷に突き出た樹木の根っこにぶら下がることだろう。飛び込むわけにはいかないし、そのまま崖っぷちに立ってもいられなかったので、男は木の根っこにぶら下がった。その根はとても細かったから、いつ切れてもおかしくはなかった。それだけでなく、夕方になって寒くなり、夜の闇が迫ってきて、太陽が沈もうとしていた。手が凍えてきて、もう長くはつかまっていられなかった。すでに手が滑りかけていた。根が凍っていたのだ。もう死ぬしかない。男は死のことしか考えられなかった。
 そのときふと見上げると、二匹のネズミがその根をかじっていた。一匹は白く、もう一匹は黒かった。それは昼と夜、時間の象徴だ。時間はどんどん過ぎていき、ネズミは根をかじりつづけ、それは見る見るうちに細くなっていった。ほとんど根はかじりつくされて、あとほんの少しで切れてしまうだろう。もう夕方で、ネズミたちも巣に帰って休みたいから、せっせと根をかじりつづけた。根はいまにもちぎれそうだった。
 男が再び上を見上げると、木の枝に蜂の巣があって、そこから蜜がしたたり落ちていた。彼はほかのすべてを忘れてしまい、その下に口を持っていくと、蜜がちょうど口のなかに入った。その味はとても甘かった。

 さて、この寓話には多くの含みがある。これまでも別の視点からこの寓話について話したことがある。今回、私が注目したい意味は、「この瞬間」ということだ。過去からはライオンが迫っているし、未来にも二頭のライオンが待ちかまえている。時間はどんどん過ぎていき、いつでもそうだが死がすぐそこに、目の前にある。さらに二匹のネズミが生命の根を切り離そうとしている。だが、もし現在に生きることができるなら、その味はこの上もなく甘いものだ。例えようもなく美しいものになる。

 男はこの瞬間を生きて、すべてを忘れてしまった。一瞬、死はなく、ライオンもいなくなり、時間もなく、ほかには何も存在しなかった。男は秘密の蜜の味を心行くまで味わった。
 人はこのように生きるしかないし、ほかの生き方などはない。そうでなければ生きていないということだ。この瞬間……それが状況なのだ。この寓話はほんとうに実存的だ。あなたは木の根っこにつかまっている男と同じだ。四方を死に取り囲まれて、時間はどんどん過ぎ去っていく。いつ死の淵に転げ落ちて、そのまま消えてしまうかもわからない。どうしたらいいだろう? 過去のことを思いわずらうか? 未来のことを心配するか? 死のことで心を悩ませるか? 時間のことを気にするか? それともこの瞬間を楽しむか?
 明日のこと考えなければ、この瞬間を一滴の甘い蜜のように味わうことができる。
 死がそこにあるとしても、やはり生きることはすばらしい。過去は必ずしもよいものではなかったし、だれにも未来のことなどわからない――それはあまりよいものではないかもしれないし、そもそも希望を抱くことからして絶望的なことだが、それでも、この瞬間はすばらしい。この瞬間を見なさい。それを一滴の甘い蜜のように味わいなさい。この瞬間は例えようもなく美しい。何が欠けているだろうか? 何が足りない
だろうか?
 この瞬間に在りなさい。

“Tao:The Pathless Path, Vol.2 #3″より抜粋
(OSHO Times International日本版100号掲載/発行Osho Japan) copyright 2003 OSHO International Foundation

挿絵:ジャーナム