OSHO 坐禅


坐禅は、奥深く何ものにも従事していない状態だ
それは瞑想ですらない
というのも、あなたが瞑想するときには
あなたは何かをしようとしているからだ
神聖なるものたること、を思い起していたり
まさしく自分自身を思い起こしたりする
そうした努力がさざ波をつくり出す

 

 

あなたは、どんなところに座ってもいい

が、何を見るにせよあまり刺激のあるものであってはならない
たとえば、あまり動きの大きなものであってはならない
それらは注意を散漫にする
木々なら見てもいい
それなら問題にはならない
なぜなら、木々は動かないのでその風景が一定しているからだ
空を見守るのもいい
あるいは、ただ部屋の一隅に坐って、壁を見守るのもいい

 

三番目は、とくに何かに注目してはならにということだ
ただの空っぽの状態ーーーー
というのも、そこに目があり人は何かを見なくてはならないからだ
が、あなたはとくに何かを見てはいない
何かに焦点を合わせたり、集中したりしてはならない
ただ広がったひとつの像、それはたいそうくつろがせるものだ
そして三番目は、あなたの呼吸をくつろがせるということだ
それをやってはいけない、それを起らせるがいい
それを自然のままにしておくがいい
そうすれば、さらにいっそうくつろぎをうむ

 

四番目は、体をできるだけ不動に保ということだ
まず、よい姿勢をみつけなさい
まくらやふとん、心地よく感じるならどんなものに坐ってもいい
だが、いったん腰をすえたなら、不動もままでいなさい
というのは、体が動かなければ心は自動的に静まるからだ
体が動けば、心も動き続ける
なぜならば、心身は二つのものではないからだ
それらは一体・・・・ひとつのエネルギーだ

初めのうち、それは少し難しく思えるだろう
が、2〜3日たったら、あなたは途方もなくそれを楽しむだろう
まもなくあなたは、心の層が一層ずつはがれ落ちてゆくのがわかる
あなたがただ無心にそこにいる一瞬がやってくる





質問
 エネルギーが内側に向かって行くとき、それは思考になり、気分になり、感情になります。そしてエネルギーが外に向かって行けば、それは生き物や自然との 関わり合いになります。けれどもエネルギーがもう内側にも外側にも向かわなくなれば、それはただそこに息づき、振動しているだけです。その時それは存在と ひとつに、全体とひとつになっています。これが坐禅なのですか?

 その通りだ。エネルギーがただそこにあるだけのとき――どこにも向かわず、その源泉においてただ息づき、そこで光を放射し、蓮の花のように花開き、外側に出ても行かなければ、内側にも入って行かないとき――それはただいまここにある。
 内側に入りなさいと言うとき、私が言っているのは、頭の中に入って行きつづけてはいけないということだ。
 社会は全部、あなたたちのエネルギーを頭の中に注ぐように強いる。全教育はいかにしてエネルギーを頭の中だけで脈動させるかという――どうやれば大数学 者になれるか、どうすれば偉い医者になれるか――という基本的技術からなっている。この世の教育はすべて、エネルギーを頭に持っていくということからなっ ている。
 禅はあなたたちに頭から出てくるようにと、そしてその源泉に――世界中の教育制度がそこからエネルギーを引き出し、頭に注ぎこませ、それを思考に変え、 イメージに変え、考えることを生み出しているその源泉に――向かうようにと求める。思考には思考の役割がある。禅が頭の中のエネルギーの役割について知ら ないというのではないが、そのエネルギーをすべて頭の中で使ってしまえば、人はけして自分の永遠性に気づくことはなくなる。非常に偉い思想家や哲学者には なるだろうが、〈生〉が何であるかを自分の経験として知ることはけしてないだろう。自分の経験として全体とひとつであるということがどういうことかを知る ことはけっしてなくなる。
 エネルギーがただ中心で鼓動しているだけのとき‥‥。それがどちらにも向かわず、頭にも向かわずハートにも向かわず、それが、ハートがそこからそのエネルギーをも
らう、頭がそこからそのエネルギーをもらうまさにその源泉で‥‥その源泉そのもののなかで鼓動しているとき、それこそがまさに坐禅の意味だ。
 坐禅とは、どちらにも向かうことなくただ源 において坐っているということだ。
ある途方もない力が湧き起こる。光と愛へのエネルギーの変容、より大いなる生への、慈悲への、創造性へのエネルギーの変容が。それはさまざまな形を取りう るが、まず人は源泉にいることを学ばなければならない。そうすればその源が、あなたの潜在能力がどこにあるかを決めることになる。あなたは源でくつろいで いればいい。そうすればそれがあなたの潜在能力そのものにあなたを連れて行ってくれる。永久に考えることを止めなければならないというのではない。ただ人 は生き生きと気づきながら、しかも源に帰っていくことができなくてはならないということだ。頭が必要なときには、エネルギーを頭に移動させればいいし、愛 が必要なときには、そのエネルギーをハートに移せばいい。
 だが二四時間考えている必要はない。考えていないときには、自分の中心に戻ってくつろがなければならない――そのことが禅の人を絶えず満足させ、生き生きと気づかせ、喜びにあふれさせているのだ。ある至福が彼を取りまいている。それは行為ではなく、ただ放射している。
 坐禅こそが禅の戦略だ。文字通りの意味はただ坐っているということだ。どこに坐っているのか? 源泉そのもののなかに坐っている。そしてたまには、中心 で坐りつづけていたら、どんなマインドの活動でも何の障害もなくこなせるはずだ。あらゆるハートの活動を何の苦もなくこなすことができる。しかもなお、時 間があるときにはいつでも、無用に考えることも無用に感じることもなく、ただ在ることができる。
 ただ在ることが坐禅だ。
 そしてもしただ在ることができれば――二四時間の中のほんの数分間だけでも――ブッダであることを自分に気づかせておくには充分だ。