OSHO Active Meditation



The Dynamic:ダイナミック技法
OSHOによる各ステージの解説
ダイナミック瞑想  5ステージ60分
■第1ステージ(10分間)――速く、深く、混沌とした呼吸
■第2ステージ(10分間)――カタルシス
■第3ステージ(10分間)――「フー、フー!」のジャンプ
■第4ステージ(15分間)――突然の静止
■第5ステージ(15分間)――祝祭のダンス




第1ステージについて

 ダイナミック瞑想という私の方式はまず呼吸から始まる。というのも、呼吸こそ存在に深く根ざしているものだからだ。あなたはそれに注意を払ったことなど ないかもしれない。だが、もし自分の呼吸を変えることができたら、あなたは多くのものを変えられる。呼吸を注意深く見守ったら、自分が怒っているときは、 呼吸にある特定の律動があることがわかるだろう。恋しているときは恋しているときで、またまったく別の律動がある。

 同じように、くつろいでいるときはまた別なふうに呼吸し、緊張しているときはもうひとつ別なふうに呼吸する。くつろいでいるときと同じように呼吸しなが ら同時に怒ることはできない。それは不可能だ。性的に興奮しているときには、あなたの呼吸は変わる。その呼吸を変わるままに変わらせなかったら、その性的 興奮は自動的に落ちていく。つまり、呼吸はあなたの精神状態に深くかかわり合っているということだ。

 もし呼吸を変えたら、精神状態をも変えられる。逆に、精神状態を変えたら、今度は呼吸が変わってくる。だから私は呼吸から始める。そして、この瞑想法の 第一段階では10分間の混沌とした呼吸を設定している。「混沌たる呼吸」というのは、どんな律動もない、深くて速い精力的な呼吸のことだ。ただ息を吸いこ み、そして吐き出す。あらん限り精力的に、深く強烈に、息を吸いこみ、また吐き出すのだ。

 精力的に、深く強烈に、息を吸いこみ、また吐き出すのだ。この混沌とした呼吸は、抑圧された肉体のなかにひとつの混沌を生み出すためのもの。あなたがな んであろうと、あなたは特定のタイプの呼吸をしている。子どもはある特定のしかたで呼吸する。もしあなたがセックスをおそれていたら、やはり特定の呼吸の しかたをする。あなたは深い息ができない。というのも、深い息は全て生の中枢を打つからだ。

 また、びくびくしていたら深い息ができない。恐怖は浅い呼吸のもとだ。この混沌とした呼吸は、あなたの過去の鋳型をすべて壊すことになる。あなたが自分 自身だとしてこしらえてきたものを、この混沌とした呼吸がぶちこわすのだ。混沌とした呼吸はあなたのなかにひとつの混沌(無秩序宇宙)を創り出す。なぜな ら、混沌が生じないかぎり、あなたは自分の抑圧された感情を開放できないからだ。

 そして、これらの感情はいまや身体のなかへと移っている。あなたは身体と心とふたつになっているのではない。あなたは身心(精神身体)として在る。あな たはその両方だ。だから、身体になされたことはなんでも、心に届くし、心になされたことはなんであれ身体に達する。身体と心はひとつの実態の両端なのだ。 10分間の混沌とした呼吸はすばらしい! しかし、それはあくまでも混沌としていなければならない。

 それは調息(ヨーガ式呼吸法)の類ではない。ただ呼吸を使って混沌をつくり出しているだけだ。そして、混沌をつくり出すことには次のような多くの理由が ある。深く速い呼吸をするとそれだけ吸う酸素の量がふえる。体内に酸素がふえればふえるほど、あなたはますます生き生きとなり、それだけ動物的になる。動 物たちは、生き生きとしているが、人間は生きているのか死んでいるのかわからない有様だ。

 あなたはふたたび動物にならなければならない。そうしたときはじめて、あなたのなかにより高次のものが展開してくる。ただ半分しか生きていないとした ら、あなたのためにできることはなにもない。そこで、この混沌とした呼吸はあなたを動物のように変える。生き生きとして息吹き、震え、溌剌となる――血の なかに酸素が増せば増すほど、それだけ細胞のなかのエネルギーも増大する。あなたの体細胞はそれだけ生き生きしてくる。

 このように酸素を得ることは体内に電気を生じさせる。この電気を「生エネルギー」と呼ぶこともできる――それを生体(生命)エネルギーと呼んでもいい。 体内に電気があるときは、あなたは内側深くに、自分自身を越えて進んでいける。その電気はあなたの内部ではたらく。体には独自の電源がいくつかある。もし あなたが呼吸をふやし酸素をふやしてその電源を打ったら、それは流れはじめる。

 そして、あなたがほんとうに生き生きとなったら、あなたはもはや肉体で感じることが少なくなる。あなたはだんだんエネルギーとして自分を感じはじめ、物 質としては感じなくなる。より生き生きと活気づく……そういうことが起きるときには、必ず人は肉体志向ではなくなっている。

 セックスがこれほど魅力あるものだとしたら、その理由のひとつはこうだ。もしほんとうにその行為に没入し、全面的に動き、全面的に生き生きとしていた ら、そのときにはあなたはもはや肉体ではなくなる。あなたはエネルギーになる。もしあなたが超越したいのなら、このエネルギーを感じること、このエネル ギーとともに活気づいているということは欠かせない。

第2ステージについて

 私のダイナミック瞑想法の第二段階は浄化だ。ここでは、意識的に狂いなさい。なにが心に浮かんでも、それが自らを表現するままにまかせなさい。それに強 力するがいい。抵抗はしないこと。ただ感情の流れるままに――。叫びたければ、さけぶがいい。それに協調することだ。あなたの全存在が巻きこまれるよう な、心底からの全面的な絶叫――。それはきわめて治療力のあるもの、深くまで癒すものだ。

 その絶叫によって、多くのこと、多くの病癖が解放されるだろう。その絶叫が全面的なら、あなたの存在全体がそのなかに入ってしまう。だから、次の10分 間(この第二段階も時間は10分間)は、泣いたり、踊ったり、叫んだり、涙を流したり、跳んだり、笑ったり……いわゆるフリークアウトする(感情の中に自 分を失う)ことで自分に表現を許しなさい。数日のうちに、あなたはそれを感じるようになる。

 はじめのうちは、それは強制であったり努力であったり、あるいはただの演技でしかないかもしれない。私たちはあまりにもうそ偽りに満ちているので、本物 で真正なことはなにひとつできない。ほんとうに笑ったこともなければ、泣いたことも絶叫したこともない。すべてがただ外観だけ――仮面だ。だから、この瞑 想法を実行しだすと、はじめのうちそれは無理強いかもしれない。努力を要するかもしれないし、演技だけで終わるかもしれない。

 しかし、それは気にしないこと。続けなさい。そうすれば、まもなくあなたが多くを抑圧してきたその根源に触れるだろう。その根源に触れて、ひとたびそれ らが解放されたら、あなたは身軽になることだろう。新しい人生がやってくる、新たな誕生が出現するだろう。こういう重荷おろしは基本的なものだ。これをや らなければ、現状のままの人間に瞑想などありえない。ここでもまた私は例外について話しているのではない。

 例外はこの際関係ない。この第二段階でいろんなものが投げ捨てられたら、あなたは空っぽになる。そして、これが〈空〉のなんたるかだ。すべての抑圧が空っぽになるということ――。この〈空〉のなかでなにかが為されうる。変身が起こりうる。瞑想が起こりうるのだ。

第3ステージについて

 次に第三段階では、私はhoo(フウッ)という音声を使う。過去、さまざまな音声が使われてきた。その音声はどれも特別な役割がある。たとえば、ヒン ドゥー教徒たちはaum(オーム)という音声をずっと使ってきた。これはあなたにもおなじみかもしれない。だが、私はオームはすすめない。オームはハート の中枢を打つが、人間はもうハートには中心が据えられていない。オームは、誰もいなくなっている家の扉を叩いているのだ。

 スーフィーたちはhooという音声を使ってきた。「フゥッ!」という音声を大きく吐き出せば、それは深く性中枢に達する。したがって、この音声は内側を 打つものとして使われる。あなたが空に、空っぽになったら、この音声はあなたの内側を動くことができる。この音声の動きはあなたが空になってはじめて可能 だ。もしあなたが抑圧でいっぱいになっていたら、なにひとつ起こらないだろう。

 抑圧でいっぱいになっているときに、なにかの真言や音声を使うのはときに危険でさえある。抑圧の各層がその音声の通路を変え、結局あなたが思ったことも ないような、夢に見たこともないような一度として望んだこともないような結果になるかもしれない。空っぽの心が必要だ。そうしてはじめて真言が使える。し たがって、私は誰に対してもそのままでは絶対に真言など勧めない。まず、浄化がなければならない。

 この真言hoo(フウッ)は、はじめの二段階を経ないではけっしてやらないこと。それは絶対にはじめの二段階なくしてなされてはならない! 第三段階 (10分)ではじめてこのhoo(フウッ)が使われるべきなのだ。ここであらんかぎりの声を出して、あなたの全エネルギーをそれに注ぎなさい。この音声で あなたは自分のエネルギーを打つ。そしてあなたが空っぽになっていたら(第二段階の浄化を経て空っぽになっていたら)、このhoo(フウッ)は深く降りて 性の中枢を打つ。性中枢は二通りのやり方で打たれる。

 一番目は自然なもの。あなたが異性に魅せられるときはいつでも、性中枢が外側から打たれる。そしてその打ちは微妙な波動でもある。男は女に魅せられ、女 は男に魅せられる。なぜだろう? いったい男のなかに、また女のなかに、その魅かれ合いを説明できるようななにがあるのだろう?陽ないし陰の電気があって 彼らを打つ。それは微妙な波動だ。それは実際には音だ。

 たとえば、あなたも、小鳥たちが互いに性的に引きつけ合うために声を使うのを観察したことがあるだろう。小鳥達のさえずりはすべて性的なものだ。彼ら は、特別なさえずり方で、くりかえしくりかえし互いを打ち合っている。このさえずりが互いに異性の鳥の性中枢を打つのだ。微妙な電気波動が、外部からあな たを打つ。自分の性中枢が外から打たれると、あなたのエネルギーは外部に、相手に向かって流れはじめる。

 そのときには再生産が、誕生がある。もうひとり別の人間があなたから誕生する。hoo(フウッ)は、この同じエネルギーの中枢を打つ。ただし、内側から 打つ。性中枢が内部から打たれるときには、エネルギーは内側で流れはじめる。この内なるエネルギーの流れはあなたを完全に変える。あなたは変身を得る。あ なたは自分自身に自らの誕生をもたらす。第三段階では、エネルギーを上昇させる手段としてhoo(フウッ)を使う。

 このはじめの三段階は浄化作用だ。この三つの段階は瞑想ではなく、そのための準備としてある。それは飛躍するための「用意を整える」ものであって、飛躍そのものではない。

第4ステージについて

 第四番目の段階は飛躍。この段階では、私は「ストップ!」と命ずる。「ストップ!」と言ったら、完全に止まらなければならない。絶対になにもしないこ と。たとえちょっとの動きであっても気の散漫をもたら、肝心な点を見逃すことになる。ちょっとしたせきばらいやくしゃみ……、それがなんであっても気がそ らされて、あなたはことの全体を取り逃すかもしれない。そうなったら、エネルギーの上方への流れはたちどころに止まる。

 あなたの注意が動くからだ。いっさいなにもしないこと。大丈夫、死にはしない。たとえくしゃみが出そうになって10分間それをがまんしても、あなたは死 にはしない。せきをしたくなったり、のどがちくちくしても、それを放っておいたところで、あなたは死ぬようなことはない。体をただ死んだようにさせておき なさい。エネルギーが一条の流れとなって上昇できるように――。エネルギーが上昇したら、あなたはますます静かになる。

 静寂はエネルギー上昇の副産物、緊張はエネルギー下降の副産物だ。ここで全身はあたかも消え去ってしまったかのように静かになるだろう。あなたは体など 感じることができなくなる。体のない状態になってしまうのだ。そしてあなたが静かであるときには、存在全体が静かだ。なぜなら、存在とはかがみ以外のなに ものでもないからだ。存在はあなたを映し出す。何千、何万の鏡となってあなたを映す。

 あなたが静かであれば、存在全体も静かになる。いいかね、その静けさのなかでただ観照者(見者)でいてごらん。たえず油断なく醒めているのだ。なにもし ないで、ただ観照者としてとどまる、ただ自分自身とともにとどまること――動かず、望まず、なにかになることなく――なにもせずに、ただその時その場にと どまるということ、起こっていることを静かに観照するということだ。

 中心に、自分自身の内にとどまるということは、はじめの三段階があって可能なこと。この三段階を踏まなければ、自分自身とともにとどまることはできな い。それについて話したり、考えたり夢想したりしつづけることはできる。が、あなたの用意が整っていないのだからそれは起こりはしない。はじめの三段階 が、あなたが瞬間にとどまる用意をさせる。この三段階はあなたを醒めさせる。それが瞑想だ。

 その瞑想のなかで言葉を超えたなにかが起こる。ひとたびそれが起こったら、あなたは二度と同じではない。同じではありえないのだ。それは成長だ。単なる 経験ではない。それはひとつの成長なのだ。にせの技法と真の技法のちがいはそこだ。にせの技法でもなにかを体験できるかもしれない。だが体験できたとして も、もとのもくあみになる。それはただの一瞥だった。成長ではなかったのだ。それはLSDでも起こりうる。あなたは一瞥するだろう。ほかの技法でもこのた ぐいのことは起こりうる。一瞥したり、体験したりはできる。

 しかし、もとのもくあみになるのがおちだ。成長を遂げていないのだから――。その体験はあなたに起こったのであって、あなたがその体験に対して起こった わけではない。あなたは成長を遂げなかったのだ。成長したときには、もとに戻ることはありえない。仮に子どもが青年になった夢をみたとすると、その子は青 年であることをちょっぴり体験できる。が、それはただの夢だ。その夢は覚めて、彼はふたたび子どもに戻る。なぜなら、それは成長ではなかったからだ。しか し、あなたが成長して青年になったら、もとの子どもに戻ることはできない。

 それがほんとうの成長――。それが、ある方法や技法の真偽のほどを判断する基準だ。世の中には、やりやすいにせの技法がいろいろある。そんなものでは けっしてあなたをどこへも導いてゆけない。経験を求めるだけなら、なにかにせの技法の餌食になるのがおちだ。真の技法は、体験それ自体にかかずらっていは しない。真の技法は成長にかかわる。体験が起こる――そのこと自体はどうでもいい。

 私の関心は成長にあって体験にはない。あなたは成長して〈ひとつ〉になり、全体になり、正気にならなければならない。この正気は無理強いできるものでは ない。社会はそれを強いようとする。だがそうしたら、あなたは内面では依然として狂気のままで、正気なのは外観だけにすぎない。私は正気を無理強いしよう としない。むしろ私は、あなたを狂気の中から連れ出そうとしているのだ。狂気が完全に引き出され、まったく捨て去られたとき、正気があなたに起こってく る。あなたは成長し、変身する!

“瞑想――祝祭のアート”より抜粋

                         

OSHO Active Meditation

 『OSHO....。ダイナミック瞑想はひじょうに活動的で奮闘を要します。
ただ、静かに黙して坐るだけでは瞑想に入っては行けないのでしょうか?』

浄化から始めなさい:Begin with Catharsis
          そうしなければ、欲求不満になるだろう。
私はみんなにただ坐ることから始めよなどとは絶対に言わない。始めやすいところから始めるがいい。さもなければ、あなたは不必要にいろいろなことを感じだす。そこにありもしないことまでも――。

 坐ることから始めたら、内面に大いに動揺を覚える。ただ坐ろうとすればするほどますます動揺する。ほかのものにはなにも気づかず、あなたは自分の狂気だ けを自覚するようになる。憂鬱になってくる。あなたは欲求不満になり、歓びを感じなくなる。それどころか、自分が気違いじみていると感じるようになる。と きには、実際に狂ってしまうかもしれないのだ!

 「ひたすら坐ろう」とまじめに努力したら、あなたはほんとうに狂うかもしれない。ただみんな心底まじめにやろうとしないからそれほど気違いが出てこない だけのこと。坐る姿勢をとると自分のなかのたいへんな狂気に気づくようになって、まじめにそれを続けたら、あなたはほんとうに気が狂うかもしれない。そう いうことはいままでに何回も起こって来た。だから、私は欲求不満や憂鬱や悲しみを生み出すようなもの、自分の狂気を意識しすぎるようにさせるものはけっし て勧めない。

 あなたは、自分のなかにある狂気をすべて自覚する用意はできていないかもしれない。ものごとが少しずつわかってくるのにまかせなければならない。知ると いうことが必ずしもいいとはかぎらない。知識を吸収するあなたの力が成長するにつれて、それは徐々に姿を現すようになるべきだ。

 私はあなたの狂気から手を着ける。坐る姿勢からではない。私はあなたの狂気を認める。狂ったように踊ればその逆のことがあなたのなかに起こる。狂ったよ うに踊ることで、あなたは自分の内側の静かな、沈黙している地点に目覚めるようになる。逆に、静かに坐った場合は狂気に気づきはじめる。自覚のポイントは 必ず反対側にあるものだ。

 あなたが狂ったように混沌と踊ることで、泣き叫ぶことで、混沌たる呼吸をすることで、私はあなたの狂気を許している。そうやって狂気を表出するなかで、 内側にある微妙な点、深い地点に気づきはじめる。それは沈黙し、静止していて、周辺の気違いざたとは対照的だ。あなたは歓びに満ちるだろう。

 あなたの中心には内なる沈黙が存在するのだ。が、ただひたすら坐っているときには、その内側のあなたは狂ったあなただ。あなたは外見は静かだが、内部で は狂っている。能動的なもの、積極的で生き生きしていて動きのあるものから始めるなら、その方がいい。そうすると、内なる静けさが成長してゆくのを感じて くる。その静けさが成長すればするほど、それだけ坐る姿勢や横臥の姿勢をとることが容易になる。つまりそれだけ静かな瞑想が可能になるということだ。

 が、それまでには事態はすっかり違っているはずだ。動くこと、行動から始まる瞑想法は、他の点でもあなたの助けになる。それは浄化になるのだ。ただ坐っ ているとあなたは欲求不満におちいる。心は動きたがっているのにあなたはただ坐りっぱなしだ。あらゆる筋肉、あらゆる神経が動こうとする。あなたは不自由 なことを自分に無理強いしようとしているのだ。そうしたとき、あなたは自分自身を強いる者と強いられる者とに分裂させてしまっている。

 そして実際には、強いられ、抑圧されている部分の方が本物の部分なのだ。それは抑圧している部分よりも主要な心の部分――。そしてその主要な部分の方が 当然勝つことになる。あなたが抑圧しているものはほんとうには抑圧されるものではなく、投げ棄てられてゆかなければならないものだ。たえず抑圧してきたた めに、それはあなたのなかで蓄積物になってしまった。躾だの文明だの教育だの、そういったものの全体が抑圧的だ。あなたは、もっと別の教育を受けたならた やすく発散できたはずのものをたくさん抑圧してきた。

もっと意識的な教育、もっと自覚的な親子関係であったなら発散できたはずのものを――。心のメカニズムにもっとよく気づいていたなら、あなたは文化によっ ていろいろなものを発散させることができていただろう。たとえば子どもが怒っているとき、私たちは「怒るのはよしなさい」と言う。と、その子は怒りを抑え つけるようになる。ほんのちょっとした出来事だったものがだんだん恒常化してゆく。

 そうなると今度は、その子は怒ったふるまいはしなくなるが、実は依然として怒っているのだ。私たちは単に一時的な事柄からあまりにもたくさんの怒りをた めこんできた。怒りを抑圧してでもこないかぎり、四六時中怒っていられる人は誰もいない。 怒りは来てはまた去りゆく束の間のもの。それが表に現された ら、あなたはもう怒らない。だから、私なら子どもがもっと腹の底から怒るままに放っておくことだろう。

 怒るがいい。だがその怒りに深く没入することだ。怒りを抑圧してはならない。むろんそこにも問題はいろいろある。「怒れ」と言えばあなたは誰かに向かっ て怒るだろう。そして、子どもはどんな形にでも育てられる。子どもに枕をあてがい、こう言うこともできる、「枕に向かって怒るんだ! 乱暴にしたかったら 枕にしなさい!」

 子どもははじめから怒りをそらせるような育て方で育てることができる。子どもはなにか物を与えられ、怒りがなくなるまでそのものを相手にあばれることが できる。数分、いや数秒のうちに子どもは怒りを発散して、もうそれをためこむことなどない。あなたは怒りやセックスや暴力や欲望、そういうものをすべてた めこんできた。いまやこの蓄積こそあなたのなかの狂気だ。

 それはそこに、あなたの内部にある。もしなにかの抑圧的な瞑想(たとえば、ただ坐ること)から始めるとしたら、あなたはこういうものすべてを抑圧するこ とになり、それが解放されるのを許さない。そこで私は浄化から始める。まず抑圧をすっかり発散させなさい。怒りをすっかり発散できるときには、あなたは成 熟したということだ。

 やがてあなたは一生の重荷から解放される。否、一生どころか何生にもわたる重荷からも――。あらゆるものを投げ棄てる用意があれば、そして狂気が表に出 るのを許すことができれば、まもなく深い浄化がおこる。いまやあなたは洗われた。新鮮に甦えり、無垢になり、そしてふたたび幼な児に戻る。そうなると今度 は、その無垢のなかで坐る瞑想が可能になる。(ただ坐るなり、ただ横たわるなり、なにでもいい。)なぜなら、もうその坐る瞑想を妨げるような「狂人」は内 側にいないのだから。

 最初になすべきことは、洗浄、つまり浄化だ。さもなければ呼吸の訓練や、ただ坐ることや、坐法(ヨーガのポーズ)などをやっても、あなたはなにかをただ 抑圧するだけだ。それに、非常に不思議なことが起こってくる。あなたがあらゆるものを発散するにまかせたときには、ただ坐るということが起こってくる。坐 法が起こってくるのだ。それは自然発生的なもの――。

 静寂が訪れるとき、静寂が降りてくるときには、それは偽物ではない。あなたがそれを養ってきたわけではない。静寂があなたを訪れるのだ。それはあなたに 起こるのだ。あなたは自分のなかで静寂が成長してゆくのを感じはじめる。ちょうど母親が赤ん坊の成長してゆくのを感じはじめるように――。

 深い静寂があなたのなかではぐくまれている。あなたは静寂をみごもったのだ。そうしてはじめて変身が起こる。さもなければそれはただの自己欺瞞だ。そして、人は何生にもわたって自分自身を欺くこともできる。その自分を欺く力はなんと無限なことか。


Meditation The Art Of Ecstasy
(Osho Times International日本版103号掲載/発行Osho Japan)
copyright 2003 Osho International Foundation




 体に基づく瞑想

 霊性は絶対に緊張しない、しえない。霊的な緊張などというものは存在しない。あるのはただ体の緊張と頭の緊張だけ。
 
 肉体的な緊張というのは、「宗教」の名のもとに、反肉体的な姿勢を説いてきた人たちによって生み出されたものだ。西洋では、キリスト教が強硬に肉体に反 対してきた。偽りの分裂、深淵があなたとあなたの肉体のあいだにつくられた。となると、あなたの姿勢は全面的に緊張を生み出すものとなる。あなたはものひ とつリラックスして食べることができない。リラックスして眠ることもできない。体で行なうことはすべて緊張になるのだ。肉体は敵だ。しかし肉体なしでは生 きられない。あなたは肉体にとどまらなければならない。「敵」といっしょに暮らさなければならないのだ。そこには間断ない緊張がある。あなたはけっしてリ ラックスできない。br />

 肉体は敵ではないし、どんな意味においても非友好的であることはない。あなたに対して無関心ですらない。肉体の存在自体が至福なのだ。肉体をひとつの贈 り物、神の贈り物として受け取るや否や、あなたは肉体へと帰るだろう。そして、肉体を愛し、肉体を感じるだろう――その感じ方は微妙だ。
 自分自身の肉体を感じたことがなければ、他人の肉体を感じることはできない。自分の肉体を愛したことがなければ、他人の肉体を愛することはできない。そ れは無理だ。自分の肉体を大事にしたことがなければ、他人の肉体も大事にできはしない。しかも、誰ひとり大事にしないのだ! 自分は体を大事にしている、 とあなたは言うかもしれない。だが、私はこう断言する、「大事にしている者はひとりもいない!」たとえあなたが体を大事にしているようにみえても、ほんと うにしているわけではない。あなたが大事にしているのは他の理由だ。他人の意見、他人の眼にどう映るかだ。あなたは自分自身のために自分の体を大事にする ことはけっしてない。あなたは自分の体を愛していない。愛することができなければ、体のなかに入っていることはできない。
 自分の体を愛するがいい。そうすれば、あなたはいままで感じたこともないようなくつろぎを感じるだろう。愛はリラックスさせる。愛があれば、やすらぎが ある。もし誰かを愛したら――あなたと彼あるいは彼女のあいだに愛があったら――そのときには愛にともなって、やすらぎの音楽がやってくるそのときに、く つろぎがあるのだ。
 自分の体を愛したら、それと同じ現象が起こる。あなたはくつろぎ、自分の体を大事にする。自分自身の体と恋に落ちることは間違ったことではないし、ナルシスト的なことでもない。どころか、それこそ霊性への第一歩だ。
 
 ダイナミック瞑想が体から始まるのはそのためだ。激しく呼吸することによって、マインドが拡がり、意識が拡がる。全身が、うちふるえる活気づいた存在に なる。いまやジャンプがより楽になる。いまではあなたはジャンプできる。考えることがじゃますることはより少なくなる。あなたはふたたび子どものようにな る。跳んだり、うち震えたり、生き生きとなる。条件付け、つまり頭マインドの条件付けはそこにはない。
 体はマインドほど条件付けられてはいない。これを憶えておくがいい。マインドは条件付けられているが、体はまだ自然の一部だということを。宗教や宗教界 の思索家たち(彼らは基本的には頭脳人間だ)はすべて、体に反対している。体とともにあっては、感覚とともにあっては、マインドやその条件付けは失われる からだ。
 呼吸にともなって、あなたは自分の体全体を隅々まで感じはじめる。体は洪水におそわれたようになり、あなたはそれと一体になる。いまやあなたの「飛躍(ジャンプ)」が可能になった。
 セックスでの「飛躍」はほんの小さなものだが、瞑想での「飛躍」は非常に大きな飛躍だ。セックスにおいては、あなたは誰か他の人のなかへジャンプする。 そのジャンプの前には自分の体と一体になる必要があり、その「飛躍(ジャンプ)」のなかでは自分がなおいっそう拡がってゆく必要がある。相手の体のなかへ 拡がってゆかなければならないのだ。あなたの意識はあなたの体を超えて拡がってゆく。一方、瞑想では、自分の体から宇宙の体のなかへ飛びこむ。あなたは宇 宙と一体になる。
 
 ダイナミック瞑想の第二ステージは浄化(カタルシス)だ。自分の体と一体になるばかりではなく、体のなかにたまってきた緊張がすべて発散されなければな らない。可能なかぎりの激しい動きができるように、体は軽く楽にならなければならない。そうしたとき、デルヴィッシュ・ダンス(スーフィの旋回舞踏)と同 じことが可能になる。体の運動が活力に満ち激しければ、やがてあなたがコントロールを失う瞬間がやってくる。その瞬間こそ必要なのだ! あなたがコント ロールしてはならない。なぜなら、あなたのコントロールが障壁だからだ――。あなた自身が障壁だからだ。あなたのコントロール機能――あなたのマインド ――が障壁になっているのだ。
 動きつづけなさい! もちろん最初はあなたが動きはじめなければならない。だが、やがてあなたが動きに乗っ取られる瞬間がやってくる。そして、コント ロールがきかなくなったと感じてくる。あなたは淵に立っている。いまこそジャンプできる。さて、あなたはふたたび子どもになった。あなたは帰ってきた。条 件付けなどすべて投げ棄ててしまう。もう何も気にかけない。他人が何と思うかなど気にしない。いまや、社会によってあなたのなかに植えつけられたものはす べて投げ棄てられる。あなたは、ただ広大な宇宙に舞う粒子となる。
 
 ダイナミック瞑想の第二ステージであなたがすべてを発散したら、そのときはじめて、次の第三ステージが可能になる。あなたの自己同一性(アンデンティ ティ)は失われ、あなたのイメージは壊される。なぜなら、何であろうとあなたが自分白身について知っていることは真のあなた自身についてのものではなく、 単なるレッテルにすぎないからだ。「これだ」「あれだ」と言われてきて、あなたはそれで自分の確認をしてきた。だが、ダイナミック瞑想の激しい動きや宇宙 的(コズミック)な踊り(ダンス)によって、そういう自己確認はすべて失われる。はじめてあなたは、生まれたときにそうであったにちがいない在り方で在 る。この新しい誕生によって、あなたは新しい人間になる。
Osho, Meditation: The Art of Ecstasy, #6 より抜粋